名馬スルスミの伝説
壱岐西部の小牧崎入口から田んぼ道に入ったところに、大きな天然石で作られた墓石がある。
墓石には大きな筆跡で「龍化の墓」とだけ書かれている。龍化(りゅうげ)とは馬の名前である。
なぜ馬の墓石が残っているかという話だが、この馬は龍と交わって伝説の名馬を生んだ母馬であると伝えられている。
子馬の名を「摺墨(するすみ)」という。
1184年、源頼朝軍勢と木曽義仲軍勢が宇治川をはさんで戦った「宇治川の合戦」において、頼朝方の武将・梶原景季(かじわらかげすえ)が手綱を引いていた馬がスルミルであった。
合戦においての武功は誰が先陣を切るかであった。その中でスルスミに並んで名馬と称された佐々木高綱(ささきたかつな)の「生唼(いけづき)」が、競って先陣の取り合いを行ったのだ。
河川上の勝負は過酷を極めたが、勝負に勝ったのはスルスミであった。
こうして戦でも活躍した名馬スルミルは全国にその名を轟かしたのである。
江戸時代末期に編纂され、壱岐の歴史を物語るうえで重要な書物「壱岐名勝図誌」にはスルスミの出生についてこう書かれている。
「雌馬と龍が交わって生まれた馬は黒馬で、長ずるにおよんで駿馬となる。飼い主はこれを壱岐の国司に献じ、国司はさらに源頼朝に献上した。頼朝はこの馬を美称して”するみる”と名付けた。」
子の知名度にくらべ母親の名がかすんでいる節はあるが、龍伝説が多く残る壱岐の人々にとって母馬・龍化は誇り高くいつまでも伝えていきたい話である。
また、龍化の墓がある付近は昔、「駒牧(こままき)」と呼ばれる草原地帯で、馬の放牧が盛んであったともいう。
壱岐の良質な栄養価の高い草が、名馬に育てたのかもしれない。
ただし、この話はここで終わらない。
実はこのスルスミ生誕の地は諸説ある。最も有力なのは岐阜県郡上市明宝気良の「名馬磨墨 生誕の地公園」であろう。
更にこのスルスミの終焉の地も定まっていない。墓石は「磨墨塚(するすみづか)」として、各地に点在する。
とにかく謎が多いスルスミ。恐らく噂が先行して各地に広まったような気もするが、それだけ多くの人々に称賛されていたと思うと納得ができる。