壱岐にまつわる話

壱岐の歴史や奇譚について勝手に述べるサイト

壱岐と亀の関わり

 壱岐を車で巡っていると、至る所に「亀」が入った地名があることに気がつく。

代表的なものは「亀石」交差点や「亀ノ丘城」などだろう。

 

川辺で甲羅干ししていたり、道をのろのろと歩む亀などを壱岐では確かに良く見るが、地名に付くほど他の田舎より多い訳ではない。

 

山口麻太郎著書「西海の伝説」には亀にまつわる話が載っている。

 

その昔、壱岐勝本町立石の苅田院川から芦辺町江の川内川尻にかけて、海が通っており、二つの島に分かれていたそうだ。

 

ある時、一匹の亀が郷ノ浦半城(はんせい)にある津ノ神山の津神社に参詣したところ、潮が急に引いて帰ることが出来なくなったそうだ。

 

取り残された亀はそのままの状態でとうとう石になってしまったという。

 

石になった亀は、実は今も存在しており丁寧に祀られている。

 

場所は壱岐東部・郷ノ浦町牛方触の田んぼの間にポツンとある。形は直径1Mほどの大きな岩であるが、フォルムは確かに亀のように見えないこともない。

 

GoogleMapにも載っているので、興味がある方はぜひ。

名馬スルスミの伝説

壱岐西部の小牧崎入口から田んぼ道に入ったところに、大きな天然石で作られた墓石がある。

 

墓石には大きな筆跡で「龍化の墓」とだけ書かれている。龍化(りゅうげ)とは馬の名前である。

 

なぜ馬の墓石が残っているかという話だが、この馬は龍と交わって伝説の名馬を生んだ母馬であると伝えられている。

 

子馬の名を「摺墨(するすみ)」という。

 

1184年、源頼朝軍勢と木曽義仲軍勢が宇治川をはさんで戦った「宇治川の合戦」において、頼朝方の武将・梶原景季(かじわらかげすえ)が手綱を引いていた馬がスルミルであった。

 

合戦においての武功は誰が先陣を切るかであった。その中でスルスミに並んで名馬と称された佐々木高綱(ささきたかつな)の「生唼(いけづき)」が、競って先陣の取り合いを行ったのだ。

 

河川上の勝負は過酷を極めたが、勝負に勝ったのはスルスミであった。

 

こうして戦でも活躍した名馬スルミルは全国にその名を轟かしたのである。

 

江戸時代末期に編纂され、壱岐の歴史を物語るうえで重要な書物「壱岐名勝図誌」にはスルスミの出生についてこう書かれている。

 

「雌馬と龍が交わって生まれた馬は黒馬で、長ずるにおよんで駿馬となる。飼い主はこれを壱岐国司に献じ、国司はさらに源頼朝に献上した。頼朝はこの馬を美称して”するみる”と名付けた。」

 

子の知名度にくらべ母親の名がかすんでいる節はあるが、龍伝説が多く残る壱岐の人々にとって母馬・龍化は誇り高くいつまでも伝えていきたい話である。

 

また、龍化の墓がある付近は昔、「駒牧(こままき)」と呼ばれる草原地帯で、馬の放牧が盛んであったともいう。

 

壱岐の良質な栄養価の高い草が、名馬に育てたのかもしれない。

 

ただし、この話はここで終わらない。

 

実はこのスルスミ生誕の地は諸説ある。最も有力なのは岐阜県郡上市明宝気良の「名馬磨墨 生誕の地公園」であろう。

 

更にこのスルスミの終焉の地も定まっていない。墓石は「磨墨塚(するすみづか)」として、各地に点在する。

 

とにかく謎が多いスルスミ。恐らく噂が先行して各地に広まったような気もするが、それだけ多くの人々に称賛されていたと思うと納得ができる。

八本の折れ柱伝説

壱岐は国内最古の読み物「古事記」の中で、5番目に生まれた島と書かれている。壱岐島は「伊伎島」と書かれ、別名(神名)で「天一柱(あめのひとつばしら)」または「天比登都柱(あめのひとつばしら)」ともいう。

 

天一柱」は天上と地上を結ぶ道を意味しており、この道を使って天上から神が降りてきたとの言い伝えがある。

 

壱岐には柱にまつわる話が他にもある。

 

壱岐の島の名前の由来につながるのだが、島は「生き島(いきしま)」と言われ、勝手に移動してしまうと考えられていた。

 

そこで創造神は壱岐が動かぬよう、八本の柱を使い鋼で繋ぎとめたのだ。それが八本柱の伝説である。

 

八本の柱は折れてしまったものの現存するものもある。

(※参考文献「雪の島」折口信夫

 

【一本目】

渡良大島の折れ柱・・・郷ノ浦の渡良三島のうち、大島の東に海面から顔をだす奇岩がある。

 

【二本目】

渡良神瀬(かうぜ)の折れ柱・・・壱岐西部、渡良地区にある八本の柱の中で最も大きな岩。

 

【三本目】

黒崎唐人神の鼻の折れ柱・・・現在の猿岩。黒崎半島にある猿岩の付近に唐人神が祀ってあったことからこの名が付いた。(※猿岩がその造詣で注目されるようになったのは近年の話である)

 

【四本目】

勝本長島の折れ柱・・・勝本沖、辰ノ島の東側にある名烏島(ながらすじま)の北側の柱状の岩。

 

【五本目】

諸津の折れ柱・・・壱岐北東部にある諸津触。折れ柱の所在は不明。

 

【六本目】

瀬戸の折れ柱・・・壱岐東部、芦辺瀬戸浦にある折れ柱。折れ柱の所在は不明。

 

【七本目】

八幡の鼻の折れ柱・・・現在の左京鼻にある柱。猿岩のほぼ対極にあり、島の最東部に位置する。海上から突き出た奇岩・折れ柱は夫婦岩観音柱とも呼ばれる。

 

【八本目】

久喜の岸の折れ柱・・・島の南東部、石田町久喜の沖合にある奇岩。平成9年の台風で折れてしまい現存していない。別名「柱本岩(はしらもといわ)」ともいう。

 

天一柱」と「八本の折れ柱」の関係性はいまだ分かっていないが、民俗学者折口信夫によると八本の折れ柱伝説が生まれたのは、天一柱とリンクさせて島全体を神格化させるための、後代の合理化によるものではないかと論じている。

 

また、現在の八本の柱は旧来のものとは異なる。

 

現在、八本に数えられるものは黒崎の「猿岩」、湯ノ本湾の「手長島」、辰ノ島の「目出柱」、辰ノ島の「名烏島の柱」、左京鼻の「折れ柱」、筒城浜の「塩津浜の巨岩」、渡良三島の「渡良大島の奇岩」、半城湾の「折れ柱」である。

 

なぜ異なるのかは分からないが、新しい柱がある場所はどこも観光地としての名所である。もしかしたらこれも合理化によるものかもしれない。また「八本柱」と「八本の折れ柱」は別であるとの説もある。

 

ただし、変わらないのは島が生きて動いていたという言い伝えだ。国内でも島が生きて移動する話は珍しく、今なお神話化して残っているのが不思議である。

 

長者原の竜伝説

壱岐島の最西端に長者原という岬がある。岬には長者原遺跡や左京鼻、はらほげ地蔵など多数の名所がある観光地だ。

 

ここに竜伝説がひとつある。

 

その昔、長者原に住む夫婦がいた。竜王への信仰心厚く、門松を竜宮に奉献していると竜宮の使いが現れ、竜宮へ招待された。

 

夫婦は承諾して海辺に行くと、海が割れ竜宮に続く道が現れた。竜宮に向かう道すがら、使いの者は「もし竜王より何でも好きな宝物を賜ることになれば、禿童(ハギワラ)を望むべし」と助言をもらい、竜宮にたどり着いた。

 

竜王は夫婦に「汝我を信じ、松竹年縄を手向くる事年あり。其誠心を報せんがため、今汝を呼びしなり。」と褒め称え、何でも好きな宝を授けると伝えた。

 

夫婦は使いの者に言われた通り「禿童」を所望すると、竜王はこれに禿童は竜宮でも一、二の宝物であるが与えることにした。

 

こうして禿童を連れ家に戻った夫婦であったが、不思議なことが次々と起こる。

 

禿童が自分の頭をなで、住居と大きな蔵を欲しいと言えば目の前に家と蔵が現れ、金銀など宝が欲しいと言えば目の前に現れ、若さが欲しいと言えば夫婦はたちまち28歳の若さに変わった。

 

喜ぶ夫婦であったが、禿童はこれらの見返りとして「雨の日で草履を履いてはだめ」「夫婦の交わりを持ってはだめ」と、二つの禁忌事項を定めた。

 

せっかく姿若く、立派な家に住むことができた夫婦であったが、戒め事が仇となり楽しむことができない。夫婦は禿童を強引に竜宮に返してしまったのだ。

 

するとたちまち夫婦の家は無くなり、宝は消えてしまった。姿もも本来の老いた年齢に戻ると、ほどなくして二人とも亡くなってしまったそうだ。

 

これが、長者原の竜伝説である。

 

欲望に目がくらんだ人間に対する啓もう的な話であるとともに、全国的に有名な浦島伝説に似通った箇所がある。

 

 禿童は他の読み方で「かむろ」とも読める。全国的にはこちらの読みのほうが有名で、古くは平の清盛が平安時代に町に放ったとされる少年スパイであった。禿(かむろ)とは前髪をパッツリ揃える、いわゆる「おかっぱヘアー」の事だ。

 

また禿というと本来は遊女見習いの少女のことを指すが、禿の髪型をした少年を禿童とも呼んだ。江戸時代になると、「禿童」が歳を取った大妖怪「大禿(おおかむろ)」なども登場する。

 

この大禿、歳は700を過ぎているが頭は禿ヘアーで、歯がボロボロな年老いた姿をしている。また大禿は男女選ばず性交して長寿を得たといわれる由来もある。

 

要は数多くの性向により長寿を得られた仙人や神様のような存在である。 

 

この「長寿」と「性交」の二つのワードは長者原の竜伝説と通ずるところであるが、関係性は定かではない。

 

長者原崎の海辺には2人の墓が今も残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

兵主神は中国の戦神だった

壱岐は神々の島と呼ばれている。それは神社庁登録の神社が150カ所以上島内に鎮座しているからである。

 

なぜそのような数の神社が存在するのかは別の話として、壱岐東部の芦辺町に国内でも珍しい神様を奉る神社がある。

 

その名を兵主神社(ひょうずじんじゃ)と言う。

 

兵主神社は日本全国に19社あり、多くの神社は大己貴命(おおなむち)※別名「大国主スサノオの六世の孫にあたる」を祀っている。壱岐の神社のご祭神は素盞嗚尊、大己貴神事代主神の三神である。

 

兵主は元々、中国の史書史記」・「封禅書」に登場する戦いの神様で「蚩尤(しゆう)」と呼ばれた。蚩尤は獣神で牛の頭と鳥の蹄を持つと異形の姿で登場する。

 

余談だが、漫画「キングダム」に登場する猛者で女武将の「羌瘣(きょうかい)」は蚩尤の一氏族という設定だ。

 

古文書には蚩尤は戦の天才であり、斧・楯・弓矢など優れた武器(兵器)を発明したとある。これが兵主の由来となった可能性がある。

  

蚩尤神は日本の古墳時代に国内に入ってきた。伝承したのは朝鮮半島新羅から渡来豪族として日本に渡ってきた秦氏といわれている。

 

兵主は読みを「ひょうず」や「ひょうす」と呼ばれる。九州の佐賀や宮崎では「ひょうすべ(兵主部)」は河童の事を指すが、これは同義であると見て間違いないだろう。

 

中国から入ってきた蚩尤が兵主神となり、そして日本では河童に変わったのではないかと考えると面白い。

 

 

壱岐兵主神社のご祭神がなぜ、兵主神ではなく素盞嗚尊(スサノオノミコト)であるかは分からないが、スサノオ兵主神との類似は多い。共に戦神であることと、別名・牛頭天王とも呼ばれ牛の角が生えているという逸話がある。

 

 

先に述べたが蚩尤も牛頭であり、こうした類似点から混合されてしまっている可能性もあると推論できる。

 

戦国時代は軍神にあやかって、戦の前には兵主神社で戦勝祈願したこともわかっている。

 

社名:兵主神社

住所:長崎県壱岐市芦辺町深江本村触1616

 

鬼から河童へ。壱岐のアマンシャグメ伝説

壱岐には鬼同様、河童伝説も多く残る。例えば湯ノ本の「河童の証文石」や安国寺の「河童の橋石」などが有名だ。

 

最も有名なのは「壱岐のアマンシャグメ」にまつわる河童伝説であろう。だが、この話は近年地元民から忘れさられている節がある。

 

「アマンシャグメ」は小鬼である。気温に恵まれ土壌豊かな環境に甘んじる、怠惰な壱岐の住民に愛想をつかし悪さを働くのだ。ちなみにこの話は「まんが日本昔ばなし」にも登場する壱岐ではポピュラーな内容であるが、河童とは関係がない。

 

「アマンシャグメ」の伝説はもうひとつある。

 

壱岐の不幸を願うアマンシャグメが竹田番匠(※大分県竹田市名工であるが、何故か壱岐にいる事になっている。)に、もし入り江を横切る巨大な橋を一晩で架けることができたら、島民を残らず食べるという約束を取り付けた。

 

アマンシャグメは三千体の藁人形に呪いを掛けると、作業員に変化させ工事に取り掛かった。あまりの速さで橋が完成しそうになったため、竹田番匠は慌てて鶏の声を真似て鳴き声を上げた。すると朝を告げる一番鶏が鳴いたと勘違いをしたアマンシャグメは「掻曲放擲け(けいまげうっちょけ)!」と叫んだ。たちまち三千体の藁人形は、海と川と山に各千体ずつ散り散りに逃げて行ったそうだ。

 

「けいまげうっちょけ」は「(仕事を)放棄して逃げろ」という意味で、この言葉が「げいまぎ崎」、恐らく現在の「牧崎(まきざき)半島」に変化したとみられる。

 

逃げて行った藁人形は「があたろう」(※河太郎、河童と同意)に変化して、馬の足跡ほどの小さな水溜まりさえあれば、そこから現れて人に悪さを働いたそうだ。

 

ちなみに「アマンシャグメ」は「アマンジャク」とも呼ばれ、民話「瓜姫とアマンジャク」の天邪鬼(あまのじゃく)と同意である。

 

佐賀県武雄地区にも全く似た話が残っている。異なるのは大工が竹田番匠ではなく、兵部大輔島田丸であることと、藁人形は「があたろう」ではなく「兵主部(ひょうすべ)」と呼ばれる佐賀地方の河童の名称に変化したと言われている。

 

とにかく河童と人間との逸話で似たような話は数多くある。

 

湯ノ本の「河童の証文石」の河童は相撲を取った際に腕が抜ける。これはもともと河童が藁人形であるという考えが残っているからだろう。壱岐の河童伝説が「アマンシャグメ伝説」に基づいていると考えると推論できる。

巨人デイが残した大穴伝説

壱岐には鬼伝説が多く残る。そのひとつが鬼の足跡だ。その昔、デイと言う大鬼が鯨をすくおうと足を踏ん張った際にできたのだという。

 

右の足跡は壱岐西部の牧崎公園、左の足跡は壱岐北部の辰の島にある。牧崎公園の足跡は高さ30M、周囲110Mあり日本百名洞にも選出されている。

 

さてこのデイという大鬼、壱岐に伝わる民話「デイの話」に「大むかし、デイという大男がいて、玄界灘に泳いでいるクジラを、ふんどしの前だれで、一度に三度もすくった」とだけある。

 

デイという名前を聞いてまずピンとくるのが、日本全国で知られる巨人伝説「デイダラボッチ(ダイダラボッチ)」だろう。デイダラボッチは日本各地に伝承のある巨人伝説だ。この大男は時に妖怪だったり、神様だったり、はたまた大鬼だったりする。

 

またデイダラボッチが残したとされる痕跡は各地にあり、琵琶湖もそのひとつだと言われている。話の大抵が「踏ん張ったり」「腰を掛けたり」「泣いたり」することで、地形が生まれたといった内容である。デイダラボッチの逸話は北関東や中部地方に偏っているのも特徴的だ。

 

デイダラボッチは地域により「ダイラボウ」「デイランボウ」「ダイランボウ」など様々な呼び名で親しまれており、その多くは一寸法師の反対語にあたる「大太郎法師(だいたろうぼうし)」に由来する。

 

デイダラボッチは国を作った神々に対する巨人信仰が生み出したとも言われており、時に人々を助け、時に山や湖を建造する。

 

壱岐古事記の国生み伝説では5番目に神様がつくったと言われており、もともと神道の信仰があつい。そうした信仰心がデイを生み出すきっかけになったのかもしれない。

 

また、壱岐は元より交易が盛んで全国各地から流れ者が多く入ってきた文化を持つ。壱岐に伝わる説話の多くは、陰陽師の末裔の唱門師(しょうもじ)と呼ばれる呪術的な芸能者が広めたという説もある。

 

壱岐のデイも元は「デイダラボッチ」ではないか?と思いを馳せてみるのも良いかもしれない。